なみゆいの会 周流杖術

周流旧杖術の会です。杖を使った型稽古の練習会です.

周流杖術という武道の練習会です. 交流武術研究会 周流代表 村中喜峰の作った武道です。 およそ、1メートル30センチの棒を使った型稽古の武道ですので、自由に打ち合うことはありません。

僕たちは本音ではなく、建前で生きていかなければならない

僕たちは本音ではなく、建前で生きていかなければならない。

・・・と、いうことで、以前より護身術には感心があり、あちらこちら覗いてきましたが、こういうのをちょぃと。

「今日は痴漢を警察に届けました。」
http://blog.livedoor.jp/yukakuramoti/archives/51123616.html

電車にて痴漢にあった女性が自ら警察へ痴漢を届けたという内容です。

なんたが、多数の否定的なコメントがその日記に付いていますが、私的には、「天晴れ、よくやった」とその女性を評価したい。
回りにどんなに沢山の人がいても、誰も助けてくれないのなら、自分自身でなんとかしなきゃならない、実際、なかなか助けてくれる人というのは少ない。
何か行動を起こそうとしてくれる人というのはとても少ない。
この辺りは「大衆」というキーワードで考えてみるととても面白いのだけれど、そについてはいずれまた。
また、女性専用車両についても書かれているけれど、
「危ないから気を付けなさいね」、これは特に不思議でもなんでもない台詞、でも、よく考えてみるととてもおかしい言葉なのです。
「気を付けなければならない」という不自由。
つまりは犯罪者、また、それに類する人達が自由を謳歌し、いわゆる弱者は、本来の自由を制限されなければならない。これは、到底納得いかない。
ならは、これは社会の仕組みというものがおかしいのではないかと拳を上げたくなるわけです。

私は一つに「本音の時代」、或いは「本音」というものに評価を与えすぎた結果ではないかと考えます。
「本音でさ、腹を割って話し合おうじゃないか」
これは良くないのではないか。

例えば、痴漢を私が見かけたとする、
本音は「忙しいし気づかなかったふうにやり過ごすことが出来れば・・・」
建前は「社会悪は許せません、取り押さえてやる。

これは私でなくても、だいたい、そんなふうだと思いますが、ここで最初の「僕たちは本音ではなく、建前で生きていかなければならない。」という文章と繋がるわけです。
建前と本音という二つの仕組みを器用に渡り歩くのではなく、建前を他人にも、そして、なにより自分自身に課していく勇気が必要なのではないかと思うのです。

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