なみゆいの会 周流杖術

周流旧杖術の会です。杖を使った型稽古の練習会です.

周流杖術という武道の練習会です. 交流武術研究会 周流代表 村中喜峰の作った武道です。 およそ、1メートル30センチの棒を使った型稽古の武道ですので、自由に打ち合うことはありません。

雨の晩は

歩行者用信号を守る

いま、中学2年の姪がおりますが、彼女が生まれてから心に決めたことがございます。

「『歩行者用信号』を守ること」

多分、学校では彼女は信号を守りなさいと、教わるだろう。保育園で教わるのか、学童、小学校か、どの時点で彼女がそれを教わるかは頼りない叔父の身ではわからないが、いずれかの早い時点で教わるには違いないと考えたわけです。

しかし、街をみれば、歩行者用信号を守る人の如何に少ないことか。

とくに、繁華街、京都では四条や河原町界隈ですが、信号を守る人が少ない。左右見て、車が来ていなければ、なんら葛藤なくそのまま歩いていく。

ある意味、信号を守らないと云うのは普遍化しつつある常識なのかもしれません、しかし、信号を守るというのは、一つの規則であり、約束事であるわけです。

子供が信号を守らない大人を見てどう判断するでしょうか。

信号を守らないと云う、約束を反故にするという行為が、つまりは約束を守らないと云うことを、とくに問題のないこととして捉えてしまわないでしょうか。

表と裏、建前と本音、二つの常識が成り立つ、あるいは成り立ってしまっている社会ではあります、ただ、子供の頃から、それを受け入れせしめていいものかと思うのです。

大人になって、二つの常識に翻弄されることになりはしても、まずは子供の多感な時期に、約束は守らなければならないということをしっかり身につけさせるべきではないか、そのためには、大人がその範を示さねばならないのではないかと考えるわけです。

とくに繁華街、横を何十人もの老若男女が信号を守る私の横を通り過ぎていきます。なかなかこれは、厳しいものです。愚かな奴、要領の悪い奴と蔑まれてはいまいか、そんな疑心暗鬼が心の中に靄のようにたちこめます。

それでも私は、初めて幾ばくかでも関わりのある子供がこの世に産まれた時から、歩行者用信号を守ると決め、それを続けています。





こちら、京都は一日中雨です。
こういう雨の晩、運転するのは危ないですね。

出来得れば運転しない方が良いのですが、どうしても出なければならないときは、制限速度・法定速度をしっかり守って車を走らせる方が良いですね。

先程、用事を終え帰ってきたのですが、対向車線に車が一台停車しており、それを裂けようとハンドルを切った車のヘッドライトで一瞬、前が見えなくなりました。
実はこちらの車線にも停車しているトラックがあり、そのトラックが対向車のヘッドライトに一瞬消えました。
スピードを出していたらぶつかっていたかもしれません。
とくにこのような雨の晩はゆっくりと車を走らせるのがよいでしょうね。