なみゆいの会 周流杖術

周流旧杖術の会です。杖を使った型稽古の練習会です.

周流杖術という武道の練習会です. 交流武術研究会 周流代表 村中喜峰の作った武道です。 およそ、1メートル30センチの棒を使った型稽古の武道ですので、自由に打ち合うことはありません。

記号という受け取り方は面白いなと思う。

記号という受け取り方は面白いなと思う。

昭和のエートス 文春文庫 う19-13 内田樹/著出版社名 :  文藝春秋 
出版年月 :  2012年8月
ISBNコード :  978-4-16-783808-9 (4-16-783808-7) 

面白いなと読む。

格闘技の試合にしても、街中の喧嘩にしても、相手を殴ることがどうして出来るのか。
こういう捕らえ方はありだなぁと思う。
例えば格闘技の試合の相手、向かい合ったときに、ふと考える。
彼もがんばって練習したのだろうなとか考える、仕事、終えた後、ジムで汗を流したのだろう、その後、、仲間と飲み屋で未来を語り合ったのかなぁ。今日の試合も、家を出る前に近所のおばちゃんから、あんた、珍しく早いねぇとか言われて、今日は試合なんだ、頑張るよ、なんて言ったのかな。家で、親父からいつまで夢みたいなこと言ってんだ、お前ぐらいの奴なんて掃いて捨てるほどいるぞとか言われて反発して自分の部屋に閉じこもったり、彼女がいて、そんな危ないことやめてよ、なんていわれているかもしれないな。あ・・・、もしも、俺が彼を一発で倒してしまって、気絶した彼の元に、彼女が飛び込んで来て、だから辞めてくれって言ったのに、とか涙ながらに彼を抱きしめて、袖口なんかで、彼の吐いた血反吐を拭おうとしていたら、俺、もう絶対、ごめんなさいって謝ってしまうだろうなとか。

まっ、そういうことを考えたら、とてもではないけれど、目の前にいる彼を殴ることなんて出来ないわけだ。
逆に、彼を殴ることが出来るというのは、殴るという行為に対するこの様々な雑音が消えてしまうということだ、つまり、雑音を消していき、ひたすら、攻撃することに純化していくこと、様々なことごとを削いでいくことで、初めて、殴るという行為をおこなうことができるわけだ。
人であったはずの俺という存在が、殴るという行為のために、様々なものをそぎ落としていく、その結果が、記号化という、著者の展開なわけだろうと思う。

いじめも、多分、似たような展開であろうなとか思う。
俺が記号化してしまった・・・、我を取り戻してそれに気づいたとき、俺は呆然とするであろうなと思う。そして、それを受け入れたとき、俺は人ではなくなるのだろう。

そこまでの実体験は私にはないけれど(多分)、それはあまり幸せなことではないなぁとか推測する。

記号化は感染する。気をつけねばならない。
少なくとも、試合では、記号化から、身体の言語化へと転位しなければならないと思う。

つまりは、おはようございます、今朝は寒いですね、もう師走ですから、そんな定型的な会話に準えて、動きを定型化していく、いわゆる、型稽古を導入することで、人を記号化させないことが大事だと思う。

多分、これについては、型稽古についての認識の違いから、大いに誤解をうけるだろうけれど、気が向けば解説したいと思う。